むかしむかし、ある国の、街のはずれのお屋敷の屋根裏部屋にクロエという少年が暮らしていました。クロエはいつも、真っ暗な屋根裏部屋に射し込んだ朝日が、そばかすの散りばめられた頬を照らすのと同時に目を覚ましました。    クロエには毎日やることがたくさんあります。炊事も洗濯も掃除も、このお屋敷のことは全部クロエの仕事です。特に朝は大変です!怖いおねえさん達が起きてくるまでに、かまどに火を入れて、朝食を作って、お茶を入れて、朝の郵便を取って来て、テーブルを整えて、おねえさんたちは椅子に座るだけで良いようにしなくちゃいけません。慌てて身支度を済ませたクロエは、ネズミ達に行ってきますを言って今日も屋根裏部屋から降りていくのでした。  クロエを産んだとき、クロエのお母さんは亡くなりました。何年かして、クロエのお父さんは再婚をしました。お父さんと結婚したその人には二人の娘がいました。その後少しして、お父さんも亡くなりました。そしてクロエは、お父さんの再婚相手である継母と二人の義理のおねえさんと暮らすことになったのです。  一人目のお姉さんは気分屋で、今日の朝食はスープじゃなくてオムレツが良いから作り直してとか、今すぐお風呂に入りたいから早くお湯を沸かしてよと言っていつもクロエを怒鳴りつけました。二人目のお姉さんは几帳面で、カーペットが歪んでいたり部屋の隅に埃を見つけるとすぐにクロエを引きずってきて叩きました。お義母さんは、クロエに目も合わせず、何も言いませんでした。おはようも、おやすみも。  お父さんが生きていた頃のことを、クロエはあまり覚えていません。とても小さかったからです。だからクロエにとってはこの生活が当たり前でした。    毎日毎日たくさんの仕事に追われていても、クロエは楽しみを見つけました。おねえさん達の着なくなったドレスや、古いカーテンや、捨てるはずの布切れで、洋服を作るのです。でも、おねえさん達には秘密です。知られれば「遊んでる暇があれば掃除でもしてなさい!」と怒られてしまうから。おねえさん達が眠ったあと、全部の仕事が終わってから裁縫をするのがクロエの日課になりました。  そしてもう一つ、クロエには最近楽しみが出来ました。街に旅の音楽家が来ているのです。  先月、買い物をしに街に出たとき、広場の方から暖かな音色が聞こえました。見に行ってみると、大きな箱のようなものを使って音楽を奏でる人がいました。その人も、箱から聞こえる音色と同じ温かな声でときどき歌っています。その人のダンスするみたいに動かす指を見つめたまま音楽に聴き入っていると、彼は一度演奏をやめて、クロエの方に来て挨拶をしてくれました。 「こんにちは。僕はラスティカといいます。何ヶ月かこの街にいる予定です。よろしくお願いします。」  ラスティカと名乗ったその人が近くに来ると、よく干したシーツよりも、おねえさん達に出す紅茶よりも、もっと良い香りがして、天使のベッドはこんな香りがするかもしれないと思いました。 「えっと……ラスティカさん、あの大きな箱はなんですか?」 「大きな箱?あぁ、あれは楽器さ。チェンバロというんだ。よかったら、君も弾いてみるかい?」  クロエはびっくりして、断ってしまいました。だって、あの箱……チェンバロは、どう見てもものすごく高級で、素敵な彫刻がしてあって、自分なんかが触っていいはずがないと思ったのです。だけど、せっかくの提案を即座に断ってしまって、失礼だったかな。断ってしまってごめんなさいとクロエが言うと、ラスティカはなぜ謝るのか分からないという風で、僕は毎日ここに居るから、また聴きに来てねと言いました。  それから毎日、買い物のたびにチェンバロの音色はクロエの耳を楽しませて、心を弾ませました。その音楽を聴くと、今日を楽しもうと思えるのでした。  そのうちにクロエは、買い物の合間に数分間だけ広場のベンチに腰掛けて、演奏を聴くようになりました。ラスティカも、クロエを見つけると、暖かい海のような、春の木漏れ日のような瞳を細めて会釈をしてくれます。それがクロエの最近の楽しみです。

そんなある日のことです。夕日が沈みきって暗くなる前にと慌てて洗濯物を取り込むクロエの元に郵便屋さんがやってきました。今日の分の郵便は終わりのはずなのにと不思議に思っていると、郵便屋さんは四通の封筒を差し出してこう言いました。 「舞踏会の招待状です。誰でも来て良いそうですよ。」  舞踏会!クロエは体が熱くなるのを感じました。舞踏会には素敵な服を着た人たちが集まって音楽に乗って踊るんだって、絵本で読んだことがあります。クロエは何度か瞬きをして、深呼吸をして封筒の宛名を読みました。お義母さんあて、一人目のおねえさんあて、二人目のおねえさんあて。四通目の宛名は、クロエになっています。クロエに手紙を交わすような友達は居ません。初めて自分宛ての封筒を見たクロエは、その場で踊りだしそうになって、体が追いつかなくて転んでしまいました。郵便屋さんに心配されたので、えへへと笑って誤魔化しました。  舞踏会まであとひと月。クロエは、仕立て屋さんから分けてもらった余り布で髪飾りやブローチを作り、買い物をしがてら売り歩いてお小遣いを貯め始めました。そして、そのお金で少しだけおしろいや紅を買いました。  舞踏会に来ていく服も作り始めました。お貴族様みたいに贅沢に布やビーズを使った服はとても作れないけれど、この舞踏会には貴族でも平民でも誰でも行っていいのだから、クロエもクロエに作れる精いっぱいの服で参加しようと思いました。

それにしても、たった一つ秘密のお裁縫だけだった楽しみが、ラスティカの演奏に舞踏会と、三つにまで増えるなんて、夢でも見てるんじゃないかしら。クロエは少しだけ不安になって、ラスティカが今日も本当に演奏してることを確かめに、今日は買い物をするより先に広場へ向かうことにしました。  広場では、いつものようにラスティカが優しい音楽を奏でていました。いつものように楽しげに、いつものようにときどき歌って、いつものように暖かい瞳でクロエを見つけました。  だけど少しだけ、いつもと違うことがありました。チェンバロの音色に涼やかな鼻歌が重なっています。周りを見渡すと、見たことのない青年が、クロエから少し離れたベンチに長い脚を組んで座って居ました。目を閉じて音楽に耳を傾けている彼が鼻歌の主のようです。細身の体にフィットした、見ただけで良い仕立てだと分かるジャケットも、白い肌にかかる灰色の髪も、なんだかすごく都会的。だけど、雪山の枯れ木のような、暖炉に残った白い灰のような、秋風に混じる冬の気配のような、どこかで出会った気がするような素朴な寂しさを纏っています。  クロエは、彼と話してみたいと思いました。だけど、しっとりと音楽に体を傾けているこの人の邪魔はしたくないな。そう思ってそわそわしていると、彼がふと目を開けてクロエの方を向きました。彼の瞳と目があったとき、クロエはびっくりしました。熟れた野いちごのように真っ赤な右目と陽の光を受けて輝くはちみつのような黄金色の左目。薄曇りの中にいきなりあらわれたふた粒のキャンディみたい。目が離せないでいると、彼が口を開きました。 「おまえ、さっきから魚みたいに口をぱくぱくしてこっちをみてたでしょう。僕になにか用?」  彼と話してみたいと思っていたのに、何を話して良いかさっぱりわからなくて、一生懸命考えます。 「あ、あの!あなたもラスティカの演奏を聴くのが好きなの?」 「ラスティカって、あの演奏家の名前?まぁ、悪くないんじゃない?」  彼の口調はちょっぴり素直じゃなくて、かわいい人なんだな、と思いました。少し安心したクロエは、初対面の人にあれこれ聞くより自分の話をしてみることにしました。 「あのね、俺はクロエ。この街のはずれに住んでるんだ。」 「ふぅん、僕はオーエンだよ。」  それから、毎日ここに演奏を聴きに来ていること、舞踏会を楽しみにしていること、裁縫をする時間が大好きなこと、いろんな話をしました。  オーエンは、興味が無さそうな態度を取っているけれどじっくり話を聞いてくれていて、とっても優しい人なんだと思いました。  それから毎日、広場にはオーエンが居ました。ラスティカと三人で話す日もありました。  俺の話をちゃんと聞いてくれる二人にお礼がしたいな。そう考えて、手作りのブローチを渡すことにしました。三人おそろいのブローチです。俺とおそろいなんて嫌かもしれないと思ったけれど、二人とも嫌がらずに受け取ってくれました。  ラスティカは 「こんなに素敵なブローチを作れるなんて、クロエはすごいんだね、大事にするよ。」  と言って抱きしめてくれました。  オーエンは 「おそろい?ふぅん、おもしろいね。」  そう言って、まじまじと眺めたあと身につけてくれました。  ラスティカと話す時間も、オーエンと話す時間も、永遠に続けばいい、と思いました。       今日は待ちに待った舞踏会の日。舞踏会は日没と同時に開会します。  夕方までにほとんどの仕事を終わらせて、帰ってきてから少しやればいいくらいにしておけるように、今日まで仕事を早く終わらせる練習をしたり、工夫を考えてきました。  夕方になってお姉さんたちの身支度を手伝う隙間に、今日のために作った服をもってアイロン室に向かっていると、一人目のおねえさんと鉢合わせました。 「ちょっと、何してるの?私の髪飾りを持って来てって言ってるんだけど?」  そう言いながらおねえさんの視線はクロエが抱えている服をとらえました。おねえさんは眉間にシワを寄せて服をじっと見たあと、ぎろりとクロエの顔を見ながら服を奪い取りました。 「あんた、まさか自分も舞踏会に行くつもりなの?」  奪い取った服を両手で広げたおねえさんは、眉間のシワを消してぷっと笑い始めました。 「アハハ!行けるわけないのに、服まで用意してたんだ、馬鹿みたい!」  笑いながら、おねえさんはクロエが作った服の生地が薄いところを持って、両手で力いっぱい引っ張りました。    服は、ビリビリに破れてしまいました。  そうだよねぇ、俺が行けるような場所じゃないよね。確かそんなことを言いながら、クロエはへらりと笑ってみました。鼻がツンと痛みました。    おねえさん達を見送って、ドレスを部屋に置いて、クロエはいつもどおりに仕事を始めました。おねえさんたち、舞踏会でお食事もしてくるなら晩御飯は軽めの用意にしといたほうがいいのかなぁ。疲れて帰ってくるかも知れないからすぐに眠れる用意をしておかないと。  そんなことを考えてクロエはいつも通り過ごしていました。いつも通り。今日が特別悲しい日な訳じゃない。夢を見ていて、夢から醒めたから悲しいような気がするだけ。そう自分に言い聞かせても、やっぱり涙がこぼれてきました。一度溢れた涙はなかなか止まらなくて、その場でうずくまって泣きました。ハンカチを持っていなかったので、袖がびしょ濡れになりました。

「なんで泣いてるの」

声が聞こえて顔を上げると、宙に浮いた箒に腰掛けたオーエンが居ました。クロエは最初に、オーエンに会えて嬉しい!と思いました。そして次に、魔法使いって本当にいるんだ、と思いました。ただでさえかっこいいオーエンが箒に乗って空を飛ぶ魔法使いだなんて、素敵すぎて、夢みたい。涙で潤んでいた瞳はいつの間にかまんまるにひらいて、キラキラしながらオーエンを見つめていました。 「どうしたの。驚いて声も出ない?」  オーエンは口をニーッと笑った形にしながら揶揄うように言いました。だけど、声が出ないのは本当でした。頭の中でいろんな言葉が飛び交って、混み合いすぎて、一つも口まで届かないからです。深呼吸したあと、ようやくクロエは尋ねました。 「……空を飛べるの?」 「今飛んでるの、見えないわけ?」  そう言ったオーエンの顔は少しだけ得意げでした。だけどすぐに真面目な顔になって、こう言いました。 「それより、今日は舞踏会の日じゃなかった?こんなところで何してるの」  クロエは少し迷ったあと、口角をわざと上げて、ドレスが破れてしまったことを伝えました。 「でも良いんだ。最初から俺が行けるような場所じゃなかったんだよ」  オーエンの視線が厳しくなりました。 「おまえはそれでいいの?」  そう聞かれて、クロエは驚きました。俺自身がそれでいいのか、聞かれたのは初めてでした。 「そりゃあ行けるなら行きたいけど、これじゃあ来ていく服も無いし、無理なものは無理だよ。」  クロエの返答を聞いて、オーエンは呆れた顔で 「おまえ、目の前に居るのが魔法使いだってわかってないの?」  というと、指をひとふりして呪文を唱えました。  オーエンの指先からあふれ出した光の粒たちは、クロエの周りをくるくると泳ぐように包み込んで、消えました。光が消えたとき、クロエは自分で作った服をきて、髪もきれいに整えられた状態に変わっていました。服は破れたところなんか無かったみたいにきれいになっています。 「今は魔法で直ったみたいに見えるけど、十二時になったら魔法は解ける。その後は自分で繕ってよね。」  クロエはうれしくて、くるりと回ってみてから、自分が知らない靴を履いていることに気が付きました。クロエの驚いた表情をみて、オーエンはニコッと笑って言いました。 「その靴はおまえにあげる。その服に合う靴、持ってなかったでしょう」  オーエンがくれた靴は、ヒールやつま先にガラスが使われていて、ぴかぴかと輝いています。クロエの足にもぴったりフィットして、この靴ならいつまでだって軽やかにダンスができそう。 「この靴を、俺に?うれしい!ありがとう!」  そう言ったクロエの瞳の輝きもガラスの靴と同じようにぴかぴかです。  わぁい!うれしいな、うれしいな!  笑いながら踊るクロエをみて、オーエンもふん、と笑います。 「今から行けば少し遅れるくらいで済むけど、そろそろ行かないと。かぼちゃか何かで馬車を作ってあげようか。それとも、僕の箒に乗る?」 「オーエンの箒に?いいの?」  二人はオーエンの箒にのってお城に向かうことになりました。 「ちゃんと僕に掴まっててよね。落ちても知らないよ。」  そう言いながらも、オーエンは箒を掴んでいない方の腕でしっかりクロエの脇腹を抱きました。 「行くよ」  二人を乗せた箒はふわりと浮かんで、そのまま仄暗くなってきた空を飛び始めました。  街の明かりを見下ろしながら、クロエはずっと気になっていたことを尋ねてみました。 「どうしてこんなに親切にしてくれるの?」  魔法をかけてくれたときから不思議でした。俺なんかのために、どうして?  オーエンはクロエから顔を背けて、静かに、まっすぐした声で答えました。 「…別に。誰でも行っていい場所に行っちゃいけないやつがいるなんて、ムカつくってだけ。」  クロエは、オーエンに掴まっている両腕にギュッと力をこめました。お城はもう目の前に見えてきました。      お城はクロエが今までに見たどの建物より大きくて、堂々としていました。  重厚な柱には繊細な彫刻が施されて、シャンデリアが輝き、衛兵がたくさん居て、それから舞踏会のためにおめかしして集まった人達がたくさん居ます。皆それぞれに素敵な服を着て、お化粧をして、アクセサリーをつけて、めいっぱい着飾っています。こんなにたくさんの素敵な服を一度に見るのは初めてで、見たい服が多すぎて目が回るようでした。  こんな華やかな場所に俺が入っていっていいの?そう思ったけれど、大理石の床の上を一歩歩くたびにオーエンがくれた靴がカチリと音を立てて、お守りのように勇気をくれました。  広間にはピアニストが演奏する品のある音楽が流れ、人々は踊ったり、お酒を飲んだり、お菓子を食べたりしています。そして広間の奥の大きな階段の上、一段高くなっているところに、主催者である王子が座っていました。  広間に踏み込んでもクロエは緊張してもじもじしていました。だけど、 「あら、その服とってもステキね!どこで仕立てて貰ったの?」 「ごきげんよう、よければ一緒に踊りませんか?」 「今日はとっても楽しい夜ですね。少しおはなししましょうよ」  たくさんの人がクロエに話しかけてくれたおかげで、夢みたいに楽しい時間を過ごせました。  舞踏会が最高に盛り上がってきた頃、突然ピアノの演奏が鳴り止みました。人々も踊るのをやめて静かになっています。。  どうしたんだろうと思ってみんなの視線を辿ると、王子が立ち上がって階段をゆっくり降り始めました。王子様が踊る相手を決めるようです。  皆、自分が王子と踊れたら良いと思っているようでそわそわしながら、背筋を無理やり伸ばしたり、ドレスのひだを整えたり、逆にテーブルの影に隠れてしまう人もいました。王子様はいったいどんな人と踊るんだろう?気になって目で追っていると、王子はだんだんこちらに歩いてきました。俺の近くに素敵な人が居るのかなと思ってあたりを見渡しました。だけど王子はクロエの前で立ち止まり、跪きました。 「赤髪の美しいきみ。よければ僕と踊りませんか?」      王子様と踊った時のことは、あまり覚えていません。緊張して、頭が真っ白になってしまったから。一曲踊り終わったあと、少しだけ二人で話したいからと言われてバルコニーに移動しました。素敵な服だねとか、今日は楽しめた?とか、広間で食べたお菓子の話をして、少し緊張がほぐれて来た頃、王子様はこんなことを言いました。 「今、一緒に暮らせるパートナーを探してるんだ。君みたいな人と一緒に暮らせたら楽しそうだと思うんだけど、どう?」  俺が王子様と一緒に暮らす?驚いて王子の方を見ると、その背後にある大きな時計が目に飛び込んできました。時刻は、十一時五十九分。 「ごめんなさい!俺、もう帰らなくちゃ!」  十二時になれば魔法はとけて、服はまたビリビリに破れてしまいます。クロエは慌てて走り出しました。あまりに急いでいたので靴が片方脱げてしまったけれど、拾わずにそのままお城を飛び出して、叫びました。 「オーエン!」  オーエンは空を飛んだままさっとクロエを引っ張り上げて箒にのせました。十二時を知らせる鐘がゴーンと鳴る中、オーエンはクロエの肩に自分のマントをかぶせました。 「間に合わないかと思った」 「俺も…。」  そうしてふたりは星の中を、うちまで飛んでいきました。      舞踏会の次の日の朝、クロエは破れた服を抱きしめて目覚めました。昨日のこと、全部夢だったのかな。ぼうっとした頭のままいつものように朝の仕事をしていると、おねえさんたちが起きてきました。彼女たちの疲れきった様子と落としきれていない化粧が、昨日舞踏会があったことだけは本当なんだと思わせました。  いつものように買い物の合間にラスティカの演奏を聞きにいくと、クロエを見つけたラスティカはすぐに演奏を止めてこちらに駆け寄ってきました。 「実は、今週でこの街を離れることになったんだ。クロエに会えなくなるのは寂しいけれど…。」  ラスティカは旅をしていてこの街に来たんだから、いつかまた旅に出てしまうことは分かっていました。だけど、寂しいな。夢から覚めてしまうみたい。 「そっか、次の街の人たちもきっとラスティカの音楽が好きになるよ。」  そう言ったクロエの声は、寂しさを隠せませんでした。 「そうだ!」  しんみりした空気にラスティカの声が響きました。 「クロエも一緒に行かない?ちょうど助手を探してるんだ。」  こんなに素敵な思いつきは無いという声でした。だけど、クロエの顔は暗いままです。ラスティカと一緒にあちこち旅をするのは絶対に楽しくて素敵だけど、そんな夢みたいなこと、ありえないよ。 「誘ってくれて嬉しいけど、俺には無理だよ。ごめんね。」  ラスティカの瞳が悲しげに翳りました。    家に帰る途中、街の人が噂をしているのを聞きました。王子様が、舞踏会で一緒に踊った人に会いたがっているそうです。ガラスの靴を片方落として行った人に。王子様は、その人が落としていったガラスの靴を履ける人を探していると言っているのも聞きました。  うちに帰ると、おねえさん達も同じ話をしていました。どうやら皆その話題で持ちきりのようです。 「それにしても、王子様と踊っていた人の顔がどうしても思い出せないのよね。覚えてやろうと思ってじっと見てたのに。」 「私も。可愛らしい顔だと思ったはずなんだけど、さっぱり思い出せない。」  クロエは少し安心しました。お姉さんたちに昨夜のことがバレたらどんなに怒られるだろうと思っていたけれど、オーエンが何か魔法をかけてくれていたみたいです。きっと、王子様が皆に靴を履かせて回ってるのも顔を思い出せないからなのかもしれないと思いました。

数日後、街中すべての人に靴を履かせ終わって、残るはこのお屋敷だけになりました。王子様と使者たちがやってきてうちの一階がざわざわしています。おねえさんたちがガラスの靴を履いてみるようです。あの靴は魔法のように、たぶんほんとうに魔法でクロエの足にぴったり馴染んでいたので、お姉さんたちの足はきっと入らないでしょう。  俺の靴だと言いに行ったほうがいいかな…。  悩んだクロエは、部屋の中を行ったり来たり歩き回ります。クロエが五度目に部屋から出るはしごに足をかけたとき、ひんやりした風がサラリと髪をなでました。  振り向くとオーエンが居ました。音もなく開いていた窓枠に腰掛けて、オーエンは厳しい顔をしています。なにか怒られるのかな。 「おまえ、ほんとうにそれで良いの。」  オーエンは言いました。怒っているのではない、たしなめるような、心配するような声です。 「ほんとうに王子様と暮らしたいの。」  そう言って、オーエンは机に引っかけられたあの日の服を柔らかく一回だけ撫でました。  そうだ、オーエンはあの日も聞いてくれた。俺自身はそれでいいのかって。王子様と暮らすのはきっと特別なことだと思う。だけど、俺が本当にやりたいことは?  クロエは決心して、オーエンのほうをまっすぐ見据えました。 「オーエン、ありがとう。俺が本当にそうしたいと思うことをやる。行きたい場所にいくよ。」  オーエンは少し微笑んで言いました。 「おまえ、今良い顔してるよ」 「また会える?」 「さあね。気が向いたらいじめに行ってやろうかな。」  クロエはガラスの靴とあの日の服を抱えて、はしごを駆け下りました。  一階について、王子の前に立ったクロエは片方だけのガラスの靴を見せながらこう言いました。 「王子様、あの日踊ったのは俺なんです。一緒に暮らそうって言ってくれて嬉しかった。だけど俺、他に行かなくちゃいけないところがあるんです。だから、ごめんなさい。」  そして、クロエは裸足のまま広場まで走りました。広場には〈最終日〉と書かれた札を片付ける、少し寂しげなラスティカの姿がありました。 「ラスティカ!」 「クロエ…?最後にまた会えてよかった。」 「最後じゃないよ!俺、あんたの助手になりたい。ラスティカと旅をしたいんだ!」  ラスティカは目を丸くして、ぱぁっと花が咲くように明るい顔になりました。 「ほんとうに?うれしい!」  そしてふたりは手を取り合って、でたらめに踊りました。二人があまりに楽しく踊るので、通りがかった人たちも釣られておどりました。手を叩いたり、笛を吹く人もいます。  今日は人生で一番素敵な日。だけど、これからもっと素敵な日がきっと何度もやってくる。クロエはそう確信していました。  めでたしめでたし。


感想くれるとうれしいです

BIGさよこのWavebox👋